愛車の名前は倫理観

明るいメンヘラはなんでも書いてしまう

「愛されたいならまず愛せ」とは言うが、愛したところで返ってくるのは打算的で自分本位な薄っぺらな愛であることが多い

同性の友人に「欲求不満なの。私バイだしあなたならいけるから、えっちなことさせて。好きな子別にいるけど」と言い寄られました。管理人です。

 

 

 

男も女も大して変わりませんね、というのが最たる感想ですよね。人間というのは男も女も老いも若いも関係なく、単純にその人たった一人自身だけなのだと思います。わかってはいます。わかってはいるのです。でもどうしても、男と女は考え方が根本的に違う、と、忌避してしまうわけなのです。

男の人を好きではありません。かと言って恋愛対象が女の人というわけでもありません。好きになる人は男の人ですがどうも中学生になったあたりから、好きになった人にさんざっぱら傷つけられた経験があまりにも多く、好きになった男の人と仲を深めるのが怖いのです。恋人になんかなった暁には、体ばかりを求められて私の心なんかどこかに置き去りにされてしまうのではないか、という心配がどうにもつきまとうのです。

 

昔から人に恋愛感情を向けられた記憶がありません。「そうだったんじゃないのかな」とか「あの噂が本当だったらカウントできるな」っていうのはあるけれど、直接的に告白されたことはないし、どうにも自分は誰からも愛されない存在なのではないかという懸念が私の中に蔓延してならないのです。私は「女」ではあるけれど誰かにとっての「恋愛対象」にはなれないんだろうなぁと、そう思うと女扱いされないよりも途方も無い虚しさが私を襲うわけでして。

せめて同性の友人とだったらプラトニックな気持ちを育めるかと思っていたらこれですから、果たして私はどうすればいいのかと思うと頭が真っ白になっていきます。せめて愛されて生きていきたいのです。そして体ばかりを求められる愛は、私にとっては愛に感じられないのです。

 

もういい年なのに、どうしても「誰かに愛されたい」という気持ちが先立ってしまいます。「俺のこと好きな俺の彼女が好き」でなくて、「あなたが好き」って思われてみたいのです。一生に一度だってかまわないから、そんな風に思われて、告白されてみたいのです。好きになってくれる親しい人ならいくらでも好きになってみせるから、許してほしい。誰かから愛を向けられたことのある人が羨ましくて妬ましくてたまりません。

 

きっといつか、誰かが向けてくれた私にとっては愛と感じられない何かも、向けてくれてた人にとってはきっと大事な愛だったのではないかと、はたと立ち止まって思うことがあります。それを思うたび私は欲張りで傲慢で、自分の思う通りのものが得られなければ、底のないコップに水を注いで満たされるのを待つかのように、得られないものをずっと求め続ける馬鹿な人間のような気がして途方もなく虚しくなります。

そもそも自分が求めてる愛もわからないし、自分が向けてる愛も相手にとっては愛と思われない何かだと思われてしまっているのかと思うとそれも悔しくてたまらないのですが、どうにもうまくいきません。感情の整理が追いつきません。

愛とは一体なんなのでしょうか。目に見えないものはどうにも信じられません。目に見えるものも信じられません。嫌いなものばかりです。そもそも、信じるとか好きになるとかいうのが自分本位の我儘な気持ちなのだから、こんな結末が待っているのが当然だと思えてしまいます。